ジュリア・おたあ(生没年不明)は、文禄の役(1592年 - 1653年)で朝鮮半島の平壌近郊から日本に連行されてきた朝鮮人の女性。
戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、あるいは人質として捕虜となった李氏朝鮮貴族の娘とも言われるが、生年月日や実名・家系などの詳細は一切不明である。「おたあ」は日本名、「ジュリア」は洗礼名を示す。
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生涯
キリシタン大名の小西行長に保護され、小西夫妻のもとで育てられる。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたと言われる。当時より既に絶世の美女として世にはなはだ名高く、主君行長が関ヶ原の戦いに敗れて、石田三成とともに京六条河原で斬首された後、おたあの類稀な美貌と才気を見初めた徳川家康によって駿府城の大奥に身柄を召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、家康の深い寵愛を大いに受けた。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し、聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされる。朝鮮半島では考えられなかった「信仰の自由」が、不幸な朝鮮女に対して多くの聡明な日本人により与えられたのである。
しかし、キリシタン棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示したため、慶長17年(1612年)に禁教令により駿府より追放され、まず伊豆大島に、ついで八丈島もしくは新島に、それから最後に神津島に流罪となった。どの地においても熱心に信仰生活を守り、見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされる(おたあはその教化で島民からキリシタン信仰を獲得したとも言われるが定かではない)。3度も遠島処分にされたのは、そのつど赦免と引換えに家康への恭順を求められつつも断り続けたこと、新島で駿府時代の侍女仲間のルチアとクララと再会して、一種の修道生活に入ったことなどが言及されている。
おたあの最期についての詳細は不明であるが、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎なる人物により、神津島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張され、いつしかおたあは神津島で死んだことになり、以来同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、おたあの慰霊祭が行なわれ観光資源となっている。しかし、実際には「日本発信」1622年2月15日付フランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあが神津島を出て、大坂に移住して神父の援助を受けている旨の文書があり、その後、さらに大坂から長崎に移っており、ジュリアおたあが神津島で死亡したことは否定されている。
駿府時代には灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は宝台院に移されている。
松浦 隆信(まつら たかのぶ、1592年1月13日(天正19年11月29日)?1637年7月16日(寛永14年5月24日))は、江戸時代の大名。平戸の松浦氏第28代当主。肥前国平戸藩第3代藩主。
第2代藩主松浦久信の長男。母はキリシタン大名大村純忠の娘ソノ(松東院)。正室は牧野康成の娘、継室は大村喜前の娘。子は松浦鎮信(長男)、松浦信忠(次男)、娘(秋月種信正室)、娘(秋山正俊正室)、娘(松浦重賢室)、娘(松浦辰純室)、娘(松浦信方室)。官位官職は従五位下、壱岐守。法号は正宗院殿前壱州大守向東宗陽大居士。墓所は平戸市正宗寺。
幼少時に母によって受洗したが、その後江戸幕府の禁教令により棄教している。慶長8年(1603年)、父・久信の死により12歳で家督を相続。祖父・松浦鎮信(法印)か後見した。寛永14年(1637年)没し、後を長男・鎮信(天祥)が継いだ。
エピソード
隆信の祖父・鎮信は平戸イギリス商館や平戸オランダ商館開設に尽力した男としてイギリスでは日本のルクルスと呼んで賞賛していたが、隆信は貿易に無理やり介入して多大な損を被らせた男としてFoolish tono(バカ殿)という不名誉な名が付けられていた。
大村純忠(おおむらすみただ、天文2年(1533年)- 天正15年5月18日(1587年6月23日))は戦国時代のキリシタン大名である。実父は有馬晴純。有馬義貞の弟。幼名は勝童丸。官職は元服時に民部大輔、のち丹後守を自称。洗礼名はバルトロメオ。三城城主。娘は江上家種の妻。日本初のキリシタン大名で長崎港を開港した人物として知られる。
生涯
大村氏の先祖は藤原純友であるという。(外山幹夫氏による平直澄祖先説もあり)この祖と同じ名前を持つ純忠は肥前国有馬の出身。1538年、肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となり、1550年に大村氏の家督を継いだ。これは純前に嫡子がなかったためであり、かつ大村家は有馬家から出てきたという歴史的背景があったからである。純前の実子(庶子である又八郎、後の後藤貴明)は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出され、大村家と有馬家の間には姻戚関係が成立した。
実子をおしのけて家督を継いだというプレッシャーを、純忠は一生感じ続けることになった。また当時の大村領は、攻撃的な肥前佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。その中で彼が見出した答えがキリスト教であった。
1561年、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始め、純忠は1562年、自領にある横瀬浦(長崎県西海市)の提供を申し出た。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会員に対して住居の提供など便宜をはかった。結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。
1563年、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受けた。しかし、純忠の信仰は過激なもので、寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊した。また、領民にもキリスト教の信仰を強いたため、この行過ぎたやり方は家臣や領民の反発を招くことになる。(しかし、その結果、大村領内では最盛期のキリスト信者数は6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期もあったとされる)
純忠の入信についてはポルトガル船のもたらす利益目当てという見方が根強いが、記録によれば彼自身は熱心な信徒で、受洗後は妻以外の女性と関係をもたず、死にいたるまで忠実なキリスト教徒であろうと努力していたことも事実である。また、横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に十年間税金を免除するなどの優遇を行っている。
純忠に恨みをいだいていた純前の庶子後藤貴明が大村家の家臣団と呼応し反乱を起こして横瀬浦を焼き払うと、1570年に純忠はポルトガル人のために1つの港を提供した。同地は良港として以後、大発展していく。当時寒村にすぎなかったこの港こそが、後の長崎である。1572年には松浦氏らの援軍を得た後藤貴明の軍勢1500に居城である三城を急襲され、城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。1578年に長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されると純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退した。その後1580年、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した。(後に秀吉によってイエズス会から取り上げられ、直轄領となる。)
巡察のため、日本を訪問したイエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、1582年に天正遣欧少年使節の派遣を決めている。彼の名代は甥にあたる千々石ミゲルであった。
彼にはそれぞれ洗礼名を持つ四人の息子、喜前(サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫により、人質に出さざるを得なかった。(後に純忠の後を継いだのは大村喜前であった。)
1576年?1577年頃から龍造寺氏の圧迫を受け、前述の通り4人の子のうち、3人までを人質に取られるなど、ほぼ従属状態にあったと思われ、1584年の沖田畷の戦いにも龍造寺方として従軍しているが、親族である有馬勢との戦いには消極的で空鉄砲を撃っていたと言われる。(この為、隆信の戦死後も、大村勢は島津軍の追撃も受けずに開放されたという)1585年、豊臣秀吉の九州征伐においては秀吉に従って本領を安堵された。1587年5月18日、不安定な政情の中で生涯をすごした純忠は55歳で坂口の居館においてこの世を去った。死因は肺結核。バテレン追放令の出る前の死であった。